2004.07.13

合戦場の名の由来

長崎は田上町のそばに祝捷山という山、というより小高い丘があります。唐八景の手前です。その祝捷山のてっぺんは合戦場と呼ばれるグラウンドとなっていて、付近の学校生のクラブ活動、ゲートボール、犬の散歩などでいつもだれかしらなんかやってるグラウンドです。
ここの管理人は実家が合戦場のそばだったんで、いつもここで遊んでいたのでしたが、なんで合戦場ていうんだろう?てずーと疑問に思っておりました。
先ごろ、町内会の回覧板に載ってたよ、というその、名前の由来の写しをもらいました。以下、その記事の丸写しです。

昔、この丘陵地帯で長崎氏と深堀氏の合戦が行われた事から人々は合戦場とこの地を呼んだ。港も見える景色の良い所だったので市民の行楽地として親しまれた。当時、丘の竹やぶ内に戦死者の墓も散在していた。昭和30年ごろより、運動場の拡張や丘陵地帯の開発が進み、住宅が立ち並んで昔の面影も無くなった。平成14年(2002年)秋・現在、運動公園は運動場並びに土手などが更にに更に整備進行中である。運動場の片隅の小公園には大正3年・田中直三郎建立の日露戦捷記念碑、東郷平八郎の円柱碑と祝捷山と刻された大石が据えられている。そして次のように記されている。「明治38年4月22日大願主・田中直三郎・賜琴石斎西道仙題」これは日露戦争の時浜の町の田中直三郎が毎朝ここに登って戦勝を祈願した。そして日本の勝利が決まった後この地を遊園地としたが長崎の儒学者・西道仙が「祝捷山」と命名したものである。綺麗になった合戦場は「祝捷山公園」となずけられた。ここを降って田上の方へ行くと寺を匂わす見事な石段がある。私寺の徳三寺である。道路の真向かいは国立療養所・長崎病院である。昔病院一帯は広場になっていて松平長七郎が馬市のセリを開いていたと言う説がある。いまから三百数十年昔の事である。

合戦場というからには、合戦があったんだろうと思いましたが、初めてその詳細を知りました。
ここの管理人の子供の頃は合戦場のすぐわき(正確にいうと合戦場と長崎病院のあいだの空地)にゴルフ練習場があって、ぽんぽんボールが飛び出してくるので、それを集めて遊んだりもしていました。ゴルフ練習場は、とうの昔になくなって、いまは、合戦場も再開発・整備され、公園らしい公園として生れ変わりつつあります。
それはそれでいいと思うんだけど、昔の合戦場がなつかしいなー、と思うんです。
上の記事に石碑と書かれていますが、その向かいにほとんど崩壊した鳥居が立ってたのです。いまはどうなってんだろうか?

そのうち、昔の写真でもここに追加しようかな?て思ってます。

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